諫早市小野島干拓地での対話     20150809 更新

 
2015年8月4日、諫早市小野島町の干拓地に入った。
ここには、市が作った「干拓の里」という名のイベント会場があり、今は民間に経営、管理を委託している。
この辺りは昔、太平洋戦争末期には航空機の練習場があり、若い飛行士が訓練のあと特攻隊になり、この卒業生50人が戦死した、との慰霊碑がある。

 今回、諫早市小野島地区の住宅地を訪ね、開門パンフを配りながら市民の方々との対話活動をしました。

炎天下で、諫干共同センター4人の老骨の方々の身を案じて、1時間余りの探訪でした。
涼んでおられたオバさん二人は「県がすることに、私たちは何もモノ言う立場に無かですもん。」

オジさん。「動員されて、ハチマキ締めて、現場で叫んだ。」「地区の中での、住民同士の話し合いはしていない。」

賢明なリーダー、谷川弥一先生の「理屈じゃ無か。」という言葉がそのままの住民の方々の反応です。




小野島の田んぼの写真を貼付します。

 

 





  森山町の諫早湾沿岸の農家へのビラ入れと対話      20150311更新

 2015年3月10日、森山町釜の集落を訪ねた。
ここは昭和32年7月25日諫早を襲った大雨により山津波を発生し、40名の方々が犠牲になった。
慰霊碑が建てられ、その爪痕は後世に語り継がれている。
この地域の前面にある調整池は現在、潮受け堤防と排水門の操作で、マイナス1mの水位が保たれている。
地域の人たちは「(潮受け)堤防のお蔭で、安心して眠れる。」と言う。
山津波は山から土砂が流れたものである。
それを、海の堤防で防ぐことが出来るのか。
「人の命。財産を守る。」ために開門してはいけない。とのプロパガンダで諫早市民、長崎県民を縛り、開門を拒否する県知事とその取り巻き。

  

 土砂は慰霊碑の左奥の山から押し寄せた。
家は災害の後、建てられたもの。
 慰霊碑にはめ込まれてある災害の図。
土砂は山から流れ、家を飲み込んだ。
 昭和32年7月25日の大雨で40人が犠牲になった。
     
     

     

 左の山から土砂が流れた。
コンクリートの擁壁で固められ、家が建てられている。
 崩れた山は今、崩壊危険区域に指定されている。
とても「安心して、眠れる。」状態では無い。
高台から海の方角を眺める。
調整池と旧干拓地を望む。




 2014年10月11日諫早湾の旧干拓地でも最も新しい干拓地、森山町の共栄干拓地を訪ねた。
干拓地に建つ石碑によると、昭和22年着工、38年338haに46戸入植し、現在はその二世の世代。
殆どが米を作りながら勤めに出ており、私たちが訪ねた時は留守を預かるオジイとオバアちゃんがいた。
話してみると、私たちのパンフを見て「みんなが仲良くせなイカン。」と言われた。

  旧干拓地の中でも一番標高の低い地帯。水はけの悪い土地なら、排水路と排水ポンプは真っ先に整備すべき所。
  農水省は意図的に整備を遅らせ、新しい干拓工事を優先した。

 稲刈りまで、もう少し。
 
 干拓地の石碑
 「時代の要請に応え、地域産業の飛躍的発展に限りなき貢献をもたらすであろう。」
 沖の小島
 南部排水門は目の前

 閉め切り後に出来た新しいポンプ場

 排水路の工事が今も続く

森山町 慶師野地区 

2014年11月5日諫早湾地区回り対話の第2弾、森山・慶師野編をやりました。
ここは、前回の森山共栄干拓とは異なり、諫早でも最も早くから干拓に取り組んだ所です。地区内にある看板によると、西暦1,600年代に干拓事業を始めたとあります。
締切前には田とノリ養殖、干潟の貝などの採取をしていた。漁業権放棄の見返りに、町内でも一部の漁協組合員には補償金が支払われた。
地域の中でも、大きな新築の家もあり、粗末な古びて住んでいるのか解らないような家もありで、格差による偏見や持って行きようの無い感情のイキチガイが感じられます。はっきりと「漁民は金を貰っとるじゃないか。」と言い、それが全て、それ以上の事は考えられない、という実態。
県知事以下、町内会までの系列の連中のマインドコントロールにはまっています。...
太平洋戦争前からの思想教育の伝統が、この地ではまだ生きています。

     
 
 諫早市の指定文化財・陣野家墓地
干拓工事を始めた陣野家の墓地は文化財に指定されている。



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